白蝶の雑記帳

儲からない時間、無駄な時間、考える時間。

言葉を創る人 ~若者言葉は自縄自縛という話~

 同じ意味を表す言葉があるか探したことはあるのだろうか? 推しとか萌えとか見える化とか。
こんばんは白蝶です。ずっと考えていることですが、皆さんはどう折り合いをつけているのでしょうか。


見える化」という言葉が気持ち悪くて使いたくないのですが、会社勤めしてるとどうしても目に入ります。可視化という言葉を使えばいいじゃないかともうのですが。
見える化という言葉はトヨタが使い始めたらしいので、日本万歳の人は異を唱えなくてもいいと思います。意識高い系記事で紹介されている内容を見ると、
    可視化:そういうデータを残しているだけ、見たい人が自分で調べる必要がある。意味のないこと。
    見える化:皆に強制的に見せつけて意識改革ができている。意味のあること。
みたいな書かれ方をしていて記事自体も気持ち悪いです。


見える化 気持ち悪い」でググると(ググるという言葉も......)下記のように感じている人がいます。
2つ目のサイトの「曖昧な言葉を使ってごまかしている」というのが上手く言い表している気がします。
wakaiojisan.hatenablog.com
okwave.jp




まあでもこれだけだと一面的なので好意的に捉えているサイトも探します。


......探しましたが語感を褒めているサイトが見つかりませんでした。メリットというキーワードで調べると山のように出ます。いっぱいあるのでURLわざわざ載せません。
色んなサイトで共通して書いているのが、データを見えるようにして活かし業務効率を改善!みたいな感じですね。まあこれに関してもいいたいことありますね。
語感として気持ち悪い理由は当たり前ですが、通常「名詞+化」として使われる言葉を「動詞の連体形+化」で使用しているからですね。


昔私の大学の英語教授が「~的という表現は音読み+的もしくは熟語+的という形で使用される。私的、公的、感情的、論理的のように。ワタシ的ってなんだ?」とおっしゃっていました。これも似たような言葉の崩れですね。
見える化はキャッチーな言葉を使って気を引きたいトヨタの思惑がありそうですが、わたし的は何でしょうか。こちらは割と馴染んでいる気がします。(というのも自分でも使った記憶があるからそう思うのかもしれませんが)

www.nhk.or.jp
hiiragi-june.hatenadiary.org


調べると1998年には疑問に思っている人がいますね。「~として」と同じ意味で使用しているのだろうなというのはわかります。2つ目のサイトでは自分という存在を曖昧にするために使っていると書いていますがこれも的を射る意見だと思います。


曖昧な言葉といえば高校生の頃は古文を読むときに「賜る」という言葉に苛立っていた気がします。これは偉い人がものを与えるという意味と、偉い人からものをもらうという2つの意味があります。客観的に見ればどちらの意味も物が偉い人から偉くない人に移動しているだけなのですが、どっちの意味だよ曖昧な言葉使ってるんじゃねえと思い、なおかつこういう部分が読み取れないと問題を解けなかったりするのですが、曖昧な言葉というのは昔からあります。古語の「おかし」「あはれ」も今で言う「エモい」と同じようなもんだと思います。複数の意味を持っていてどんな状況でもこの言葉使えばOKというのは楽なんですよね。オールインワンの化粧品とか人気ありそうですし。


ただし、あくまで楽なのは曖昧な表現で伝わる場合とか理解度がその程度で問題ない場合でしょうね。違和感がないのは既に輪の内側にいる人だと思います。輪の外側にいる人は気持ち悪いと思うのでしょうね。おっさんが若者言葉に嫌悪感を示すのは流行から爪弾きにされたように感じるせいですね。この論法ならば。

一番賢い向き合い方はそういった言葉を適切な場面では使用しつつ、言葉は生き物だからと言い訳せずになぜ変化したのかを考え続ける姿勢だと思います。


とりあえず使ってみる精神は大事

高校生の頃萌えという感覚がわからないと友人に言ったら「とりあえず使ってみろ。可愛いと思ったらそれが萌えだ」と言われました。このありがたい教えに従って使ってみたら抵抗はなくなりました。まあ「萌え~」なんて言っているやつがいたらちょっと距離を置きますが、抵抗があるうちは意味を輪の外側から考えることになり当然否定的な意見になる確率は上がります。とりあえず使ってみるという姿勢は正しいなと思います。
歳を取ると経験を積んでそれなりにプライドが高くなります。こうなると若者の言葉を使うというのはできなくなるのでしょうね。


高校生の頃読んだ評論に「戦争で植民地化した場合まず現地人に自国の言葉を使わせる(日本については例えば台湾)。人は言葉でものを考えるから自国語を強制することで考え方や物の見方を支配する」なんてことが書かれていました。言語学界では常識でしょうか、言語学詳しくないのでそこまではわかりません。
おっさんが若者言葉を使うと支配されてしまうのですよ。中には流行に浅く触れて気軽に使う方もいらっしゃるので、頭が柔らかいなあとか言葉の使い方がわかっているなあと感じる今日このごろです。そのくらいで支配されないという確固とした自信があるのでしょう。


言葉が違えば意味は変わります。犬とDogは厳密には違うようです。新しく言葉を創りたがるのは「自分の感じたことは他の人とは違う」という無意識の現れでしょうか。しかし、その言葉の背景に共感されると嬉しくなるのは矛盾ですね。だって共感されるってことは他人と同じことを考えているのですから。所謂個性の話に似ています。これに関しては養老孟司さんの本で読んで考えたこともあります。精神科のお世話になっている人を見てみろ、皆個性にあふれているだろ、ていう話ですね。


...少し考えてみましたが個性とは構図が違うようにも思います。共感されると嬉しいのはおそらく普通のことです。では自分が感じた言葉を言い表す適切な言葉はないかと考えないのだろうか。考える人はそれでもなぜ造語するのでしょうか。おそらく創ったほうが手っ取り早い、もしくは自分の考えは他人とは厳密には違うニュアンスがある、という意識はありつつもそこまでは考えていないのでしょうね。自分主導で会話を進めたい意識の現れで、自分が作った輪の中に人が沢山入って欲しい、この指とまれ、ただそれだけです。

最後に

適当に書いたタイトルのため回収が難しいのですが、曖昧な表現で多数の共感を得たい人はその程度の理解しかされないと思うし、自分で好き勝手に輪を作る人は排他性があると思います。本当の友達がいないとか薄っぺらい関係に悩んでいる人はこの辺りにも原因があるのではないでしょうか。

適当ですがこんなところで、おやすみなさい。