白蝶の雑記帳

儲からない時間、無駄な時間、考える時間。

【ネタバレあり】プリンセス・プリンシパルCrown Handler第3章 感想

こんばんは、白蝶です。
プリプリCH3を公開初日に1回、2日目に5回見てきて色々思うことがあったのでとりあえずつらつらと書き残します。ネタバレ関係なく書くので1回しか見ていない良い子が見ることは積極的には勧めません。

概要

リチャードの部下、強い大男さんはCH3のパンフレットでは「隊長」と説明されているため隊長とします。ちなみに副隊長はCH2で登場したジョンソン・カーター。
もっと細かく場面分けできると思いますが、私の独断でざっくり下記のような場面分けしました。

シーン01:エドワード皇太子の葬儀
シーン02:リチャードとプリンセスが離宮の廊下でどちらに与するか話す場面
シーン03:女王とノルマンディー公が話す場面
シーン04:プリンセスがメアリーを訪ね絵本をプレゼントする、ノルマンディー公も来て家庭教師を増やすと言う場面
シーン05:臨時メイドを雇う、アンジェが隊長を離宮内で見つける、ドロシーがメアリーにお茶を運ぶ場面
シーン06:プリンセスがリチャードにこの国の何を変えようとしているのか問う場面
シーン07:女王の代理でリチャードが議会に参加する場面
シーン08:ノルマンディー公とリチャードが狩りをする場面
シーン09:ピーブルス(=新家庭教師)の教育のせいでメアリーが逃げ出す場面
シーン10:ノルマンディー公とガゼルが話しメアリーのスケジュールについて話す場面
シーン11:リチャードが車中で部下と密会する場面
シーン12:茶会がおわり解散する場面
シーン13:リチャードがメアリーを訪ねる場面
シーン14:チーム白鳩会話場面(茶会は根本的解決にならないとアンジェが言う場面)
シーン15:メアリー車両が爆破する場面
シーン16:コントロール内の意見は割れたが、共和国本国の判断で亡命作戦が認可された場面
シーン17:メアリーとオリヴィアを連れて共和国の巡回艇に向かう場面
シーン18:ノルマンディー公に全てバレる場面

感想

まず比較的どうでもいい感想から。

絵本「The Whale In The Clouds」について

くじら雲雲の中のクジラ(公開された冒頭映像をみて修正)というタイトルで表紙にクジラが描かれており、本を開いたシーンでもクジラが雲のように空を飛んでいるのがわかります。プリンセスは子供の頃友達に読んでもらったと言っており、TVアニメで同じ本が出てくるシーンは見つけられませんでしたが、Case20「Dipper Ripper」でアンジェがクロエとしてスリの女の子ジュリにお話をしてあげている場面で「空を飛ぶクジラの話はどう?」と言っています。全くの作り話をしていたわけではなくて子供の頃読んだ話をしてあげていたんですね。

作画について

うろ覚えですがハイライト、というか光の描き方が変わったように感じました。

上記はCase24の一場面ですが、顔の輪郭部に光を集中する描き方ですが、TVアニメでは暗い場面ではたまにありましたが、CH3ではそこまで暗くない場面でも多用していたように感じました(CH3の方が手間が掛かっているように綺麗)。ちなみにCH1、2のBru-rayを再視聴したところ似たような描き方は見つかりませんでした。見逃していたらすみません。CH3は雨が降っていることが多く暗いシーンが多かったからでしょうか?
まあこれは気のせいかもしれません。ただ作画は少し綺麗になった気はしました。

アンジェの台詞について

シーン17で「何があってもあなたを守ってみせる。命に代えても」という台詞がありますが、映画館後ろの方で見た初見は「命に代えても」が全く聞こえなかったのですが、劇場前方の方で観た時ははっきりと聞こえました。川崎チネチッタのCボールサウンドで一番大きく聞こえたように感じます。

リチャードの性格について

CH2まではリチャードの飄々とした性格のみが描かれていますが、CH3の後半は人前では飄々としているように見せその実かなり気性が荒い性格が描かれています。シーン8で一瞬だけノルマンディー公に猟銃を向けるシーン、シーン11で隊長と話す場面、シーン13でメアリーの部屋から帰る際に廊下の壺を割りながら苛立ちを隠せないシーン、シーン15でメアリーが生還したことを知らされたときのあからさまに不満な表情、と結構露骨に描かれています。
シーン13でプリンセスとメアリーの仲が良好なことを知ると「せっかく穏便に済ませようと思っていたのになあ。まあ仕方ないか」などと言っており、穏便じゃないやり方としてメアリーが乗った車を爆破しているのですが、そもそもCH2でメアリーを船ごと爆殺しようとしたことを考えると若干違和感があります。穏便なやり方がどうするつもりだったか知りたいですね。

メアリーの精神面について

メアリーは今回はっきりとシーン12で「私はアルビオン王国の女王にはなりたくない。どうして私じゃなきゃいけないの?」と言っています。まだ幼く本心がこのようでも全く仕方がないことだなと思います。振り返って小さい頃のプリンセス(現アンジェ)がどうだったかというと、アンジェと出会ったのはまさに辛い教育の日々から逃げ出そうとしていた時でした。そう考えると特別メアリーの精神が弱いわけではないように感じます。では現プリンセスがなぜその辛い日々を、現アンジェよりも無教養な状態から耐えられたかというと、現アンジェが胸に抱いた望みをもらってもう一度一緒に暮らせることが支えになっていたわけです。現アンジェも現プリンセスと再開することを希望としてスパイとして辛いことも乗り越えて来られたわけです。

シーン5について

ドロシーがメアリーにお茶を運ぶシーンで、メアリーが書いている途中の手紙持ってドロシーの近くのテーブルに移ってくるシーンだが、可愛い、これに尽きる。

シーン10について

ノルマンディー公はリチャードが水面下で動いていることを知りながら、メアリーのスケジュールを見直す必要がないと判断している。「まだ時合ではない」という発言から判断できるが、メアリーのスケジュールを変更しないことでリチャードがどう動くかを見るための餌としている。時合ではないという表現はCH1で侍従長の様子を見ていたときもガゼルに言っていた。この時点でリチャードをエドワード暗殺犯として疑っていたならば、メアリーの命が危ないことも理解しているはずで、メアリーの生死は重要ではないと考えていることがわかる。
仮にそれでリチャード逮捕、メアリー死亡となると王位継承権第一位はプリンセスに繰り上がるのではないだろうか?Case7「Bullet & Blade Bullad」でノルマンディー公は「暗殺騒ぎにあの女(プリンセス)が巻き込まれてくれればそれで良い。お飾りとはいえ王位継承権は第4位、いつ誰が担ぎ出さんとも限らんしな」と言っているためプリンセスが女王になることも良しとしていないように受け取れる。そうなるとノルマンディー公が一体誰が次期国王・女王になることを望んでいるのか全くわからない。エドワード以外はありえない、という感じだったのだろうか?

シーン17について

完全に王国側に先回りされていたため情報が売られていたと予想できる。Lか本国の判断だろうが、Lがプリンシパルが捕まることを想定した作戦を立てることは考えにくい。工作員が捕まってしまうと情報が漏れる危険性がある。TVアニメの最後でもジェネラルがLの代わりに指揮を取ったが、軍部の独断でメアリーが亡命するという情報を売ったのだろう。
駅で待ち伏せしていたのは赤い軍服の兵隊、汽車から移った先の屋上で包囲された時ガゼルが直接指揮していた(おそらく)近衛兵、Cボールで飛び移った巡回艇で取り押さえてきた水色のセーラー服の水兵(空中戦艦グロースター等に乗っているのを見る)とかなり万全な体制で待ち伏せしているため、確度の高い情報源だったのだろうと推測できる。さて一体誰が売ったのでしょうね。

シーン18について

プリンセスが二重スパイを強制されるわけですが、二重スパイは大抵悲劇を迎えるはずなので雲行きが非常に怪しく、今後が気になります。
願わくば檻に入れられアンジェの膝を抱えた姿が反撃フラグであることを望みます。(画像はCase23「Humble Double」より)

また、リチャードが収監されるシーンでドヤ顔で立っていたのはCH2でノルマンディー公と車中で話していた男。「最近王室内にネズミが潜り込んでいるようだな」「ではネズミがどこから入り込んでいるか調べましょう」などと言っているので裏でリチャードに探りを入れていたのは多分この人ですね。

最後に

本作は過去作のシーンを想起させるシーンが多かったように感じます。戦闘が少ないけど飽きさせない演出でしょうか? この点においても非常にニヤニヤしながら楽しめたので良かったと思います。

・シーン2にてドロシーがプリンセスにカマをかけるシーン。二人が強く言い合うという意味ではCase9「Roaming Pigeons」を思い出しました。
・シーン14にて「ドロシー、私たちは何?」「私情を挟むなっていうんだろ。わかってるよ」というのはCase1でも「スパイ、嘘をつく生き物だ」なんて掛け合いがありましたね。
・シーン5にて、ドロシーがノルマンディー公と対面することを避けたシーン。ノルマンディー公とはCase1でプリンセスの友人として過去に対面していますからね。
・亡命するシーンがあったという意味で、Case13「Wired Liar」が思い出されました。まあCase13は結局亡命するフリでしたが。
・Case20のクジラ雲の話
・Case23の壁を背にして膝を抱えるアンジェ


まあそんなに多くはないかな......。
そんな感じで今回はこのへんで、おやすみなさい。

書籍か電子書籍か ~或いは認知的不協和理論のこと~

 こんばんは、白蝶です。

目次

アンチ電子書籍的考え

  • サービスが終了すると読めなくなる
  • 紙と比較すると頭に入らない
  • 目が、目がぁ~!
  • 本棚感が足りない
  • 紙の質感が良い
  • めくる残ページを感じられなくてつまらない

よくあるアンチ電子書籍派の主張ですが、Kindleユーザーの私も概ね同意します。

Kindleがサービスをいつ終了するかわかりませんが可能性はありますし、紙よりも目が画面上を滑る気がしますし、E-inkでもバックライトをつけると目が疲れますし、本棚作って一望する機能はさほど強くないし、ページをめくるときは画面タップや音量ボタン押すわけだし、残りページ数は%表示できるので趣が無くなったなと言う感じはします。

電子書籍派の考え

  • 複数の持ち運びが楽
  • 部屋を占領しない
  • 引きこもりでも購入が楽、早い
  • 文字サイズ、行間、余白サイズが変更できる
  • 間違って2冊買うことが無い
  • ハイライト付けられる
  • 文字列検索できる(人物名とか便利)
  • いくらでも積読できる

電子書籍派は紙に不満があるわけではないが、電子の利便性を享受して紙に戻れなくなった人が多いと思います。いつでも複数持ち歩いているから気分で読む本を変えられるし、部屋には端末が増える程度だし、ワンクリックで即座に購入できるし、文字密度が高い読みづらい本も行間を広くして読みやすくできるし、一度購入すれば購入済みと表示されるから「あれこの本買ってなかったよな?」と思って間違って2冊目を買ってしまうことはないし、伏線とか重要そうなポイントにハイライト付けられるし、ミステリー読んでて「こいつ誰だっけ」とおもったら人物名で検索すれば関連する箇所を読み返せるし、いくら購入しても床が抜けない。

あとあまり語られませんが、ミステリーなどで少しページを戻って見返したい場合、スマホタブレットKindle端末、PCなど複数端末で開けば紙以上に参照しやすい。

 

それでも書籍が良い理由

電子書籍は利便性の点で選びますが、満足度の平均は紙のほうが高いと私も思います。なぜか? フェスティンガーの認知的不協和理論が影響しているんだろうなという結論です。

私の経験上、書籍の駄作を買ってしまっても何となく憎めない事が多いです。おそらくヒューリスティックとしての保有効果と認知的不協和理論が関係しています。

保有効果によって、本を持っていない場合に比べて、持っている場合にその本を高く評価してしまう。

または、自分で代金を払って手に入れたのにつまらないという認知不協和を解消するため、「面白かった」「面白くはないけれど悪くはなかった」と自分の認識を変えてしまう。

 

自分と同世代の若い人でもまだ電子データの価値を軽視する人は多い気がします。ゲームにお金や時間を費やし、SNSにおいてテキストデータで感情的な触れ合いを求めているにも関わらず、物質的なものそれ自体に付加価値を感じている。当然電子書籍の所有感は紙の本に比べて低く、電子書籍では保有効果はさほど働いていない。
経験上、電子書籍も慣れれば認識上紙と大差ありません。電子書籍を使わない人は慣れることがないため、保有効果による紙の優位性から抜けられません。否定しているわけではなくこれはこれで幸せなことだと思います。

無償で得られたものより対価を払ったものの方が、他人に決められたことよりも自分で決めたことの方が満足感が高いということに私も思い当たるフシがあります。面白くない話の中に無理矢理面白いポイントを探して言うほど悪くなかったよな、と事実は変えられないため認識の方を変えてしまう。

電子書籍を購入した場合はこれらのバイアスはかかりにくいのではないかと。内容を評価するためにバイアスを排除したいならば電子、精神的に楽しみたいならば本。このような棲み分けも面白いのではないでしょうか。

ただし、プログラマとかDTMで音楽作る人とか動画制作するひととか、電子データの成果物に馴染みがある人で電子データの価値がわかる人は、電子書籍であっても書籍と同様のヒューリスティックは働くのでしょうね。

 

電子書籍を多用するようになって気づいたこと

  • 表紙を見なくなったため著者名やタイトルを覚えにくくなった
  • 新品しかないから出費が増えた
  • 漫画のように同じ本を何度も読み返すことが少なくなった(年取ったせいかも)

みたいなデメリットがありましたが私は携帯性の利点で全て無視できます。書籍も全く買わない訳ではなく気に入ったものは本屋で購入しますし、図書館で借りることもあるため100%電子ではないことが書籍or電子という手段に対する程良い距離感なのかもしれません。

 

とりあえず今日はここまで。おやすみなさい。

 

参考URL

ずみの日記 _ ヒューリスティックスとバイアス

認知的不協和とは? 意味、悪い例と解消法、ビジネスにおける活用術、併せて覚えたい用語、関連書籍について - カオナビ人事用語集

 

過去記事

shirocho.hatenablog.com

 

ルッキズムが悪だという罠

こんばんは、白蝶です。


いきなりルッキズムの定義ですがWikipediaではこう記載しています。

ルッキズム(英: lookism)とは外見重視主義[1][2]。主に人間が、視覚により外見でその価値をつけることである[3][4][5][6]。「look(外見、容姿)+ism(主義)」であり、外見至上主義[7][2]、美貌差別[8]、外見差別、外見を重視する価値観などとも呼ばれる[2]。「容姿の良い人物を高く評価する」「容姿が魅力的でないと判断した人物を雑に扱う」など、外見に基づく蔑視を意味する場合もある[5][3][4][6]。

一般に差別とされ「親ガチャ」等の言葉とともに最近になってやたらと話題になっているような気がします。「美人」がセクハラワードと言われる謎風潮も最近強いですね。


ルッキズムは悪だとされがちですがTPOの問題で、「仕事にルッキズムを持ち込むな」「就職機会をルッキズムによって奪ってはいけない」「ルッキズムによって就職待遇を変えてはならない」これだけのような気がします。

性嗜好として外見の要素があるのは当然のこと。プライベートな関係で自分の好みの外見の人を優遇するのは全くもって悪ではない。社会的な状況において、社会的な機会をルッキズムによって左右してはならないというだけだろう。

問題は「仕事中」の境界だが、会社員ならば業務時間内に人の容姿を褒める、貶すなどせず、他人のプライベートに興味関心を持たなければ良く、さほど問題ではない。しかし業務時間が明確ではない自営業の場合は難しいと感じる人もいるのだろう。

と言う訳でアンチルッキズムの攻撃を回避するためにわきまえなければならないのは下記の3点だ。

  • アンチルッキストを見分けること
  • 仕事とプライベートの境界を明確にできること
  • 仕事中に言っても問題にならない褒め言葉を習得すること
アンチルッキストを見分けること

単純な話アンチルッキストに聞かれる場では何も言わなければ良い。逆にアンチルッキストがいなければ仕事中に容姿を褒めようが問題ない。審判が見ていなければ過剰なラフプレーも違反ではない。

仕事とプライベートの境界を明確にできること

アンチルッキストの存在を知らなくても仕事の場で余計なことを言わなければ良い。境界が曖昧ならばはっきりとしたプライベートな場以外では仕事だと思っていればいい。「人間という仕事」。

仕事中に言っても問題にならない褒め言葉を習得すること

TPOに関わらずに使用できる褒め言葉を習得するということだ。口説くには弱いかもしれないがいつでもどこでも脳死で使えるというのは便利だろう。


さてそれぞれの策についてですが、おっともう休息の時間なのでここまでにします。
おやすみなさい。

人は一人では生きられないとかいう名言

お久しぶりですこんばんは、白蝶です。

タイトルの名言「人は一人では生きられない」という名言について考えてみる。友達や恋人がいない奴は幸福度が低下したりと色々問題があるらしい。ところで私には友達がいないが特に問題はない。なぜなら人は一人では生きられないからだ。私が生きられるということはつまり一人ではないということだ。この世界で一人ではないというのは希望が持てるな。うぬう。

こんな風に嘯いて日々生きているわけだが、長らく語り継がれる名言ならばこの詭弁も覆してくれると信じて調べてみる。この記事のゴールは私が友達や恋人、結婚相手を作ろうと思えるようになること、もしくは完璧に反論できるようになることだ。

世で言われる文脈と、身近な人が言う文脈では異なっているはずなのでミクロ視点とマクロ視点でそれぞれを考える必要があると思う。考えたことがある人はわかるだろうがこの名言はマクロ視点=社会視点において有効で、意味が理解できるが、ミクロ視点では感情論でしかないと思う。

目次

Point 1 世の中は分業制で成立しているという観点

衣食住の調達全ての工程において他人が関わらないように賄うことはできない、また仕事においても物やサービスを提供しているならそれを受け取っている人がいるはずだから誰かと関わらざるをえない、という観点。まあ衣食住全て一人で調達できるならば、貨幣を使わずに済むため他人と関わらなくて済む。

制度の観点から言うと、土地を持っているだけでも税金を取られるため、日本ならば日本円を支払わなければならない。払う方法が電子化されたとしても円を調達するために円を持った他者と関わらなければならない。だから関わらないようにするというのは少なくとも日本という国では、日本円が関わる限りは無理だ。

Point 2 金で享受可能な商品(又はサービス)から人間関係は発生しないという観点

「人は一人では生きられない」という名言に反論したい孤独者はこの観点で話していると思う。ただし「金で享受可能な商品」といっても全てではなく話者に都合の良い定義で話しているに違いない。

人間関係が発生しないと考えられている例(想像)

下記のルールに当てはまる場合、無意識に人間関係が発生しないと考えている。

  1. 非対面で享受する場合
  2. 対面相手と自分双方のやり取りが定型である場合
  3. 対面相手が入れ替え可能な立場の場合
  4. 自分が入れ替え可能な立場の場合

Amazonで商品を購入する場合は言わずもがな、スーパーマーケットで購入する場合も慣れて決まりきったやり取りしかしないならばやはり人間関係の発生を感じない。
また、入れ替え可能な立場というのは自分または相手との関わりが長く続かないという意味だ。(関係消滅が故意、環境によるものもしくはいずれかは要検討)関係の期間と関連して関係の深さも重要なファクターだと気づく。

人間関係の深さ

大雑把に2分すると、二人称の関係と三人称の関係がある。当然どちらの関係もグラデーションがあるので下図の通りとなる。二人称は親密な関係、もしくは親密でいたいと思う関係のこと。三人称はそれ以外全て。流石に見たことも聞いたこともない人はマッピングしていないがもし図に入れるならば画面外の左下の方かな。意味ないが。

親密度マップ
図1 親密度マップ
親密度マップ(カテゴライズ版)
図2 親密度マップ(カテゴライズ版)


自覚があるほど希薄な人間関係で生きているためご覧の通りスカスカマップになっている。期間も深度も原点は零ではなく基準値となる。期間にしろ深度にしろ中央が埋まらない。ちなみに稀に会う友人は最後に取ってつけたように入れた。

左下の第三象限の人々はよほど意識しなければ意識外に追いやられる。「金さえ稼げれば一人で生きていけるじゃないか」と主張する方は第三象限、場合によっては第四象限も無視している。

認識の明確化

定義付けは最初にやるべきな気もするが、ここで「一人で生きられない派」「一人で生きられる派」の認識をはっきりさせておこうと思う。

一人で生きられない派の根拠

  • ミクロ視点(個人的視点)
    • 現在的:友人や恋人という精神的支柱が必要だから。親、結婚相手といった金銭的支柱が必要だから。友人がいるほうが楽しいから。友人がいない寂しい人と思われたくない。
    • 将来的:怪我をして精神的支柱、金銭的支柱が必要になるかもしれないから。年をとると身体的に支えが必要だから。
  • マクロ視点(社会的視点またはメタ視点)
    • 社会は分業制で一人で衣食住を賄うことはできないから。
    • 子育てや恋愛の試行錯誤等、人と関わることを通じて成長するものだから。

一人で生きられる派の根拠

  • ミクロ視点
    • (意味のある関わり以外は人間関係とカウントしていない、関係が浅いものは人間関係とカウントしていないため)現に自分が一人で生きているから。
    • (故人は発言できないのは知っているが)現に世の中独身で生きている人も多いから。
  • マクロ視点
    • 違法ではないし他者に迷惑をかけているわけではないから放っておいてほしい。(子育てしないことは棚に上げるものとする)

さて、ここで明確化したのは「一人で生きられる派」の自己中心的思考だ。なんとなく構造主義実存主義の対立を感じる。メタ視点で広く物事を考えている感や他者のことを慮っている感を醸し出すと正当な印象を受けるから一人では生きられない派のほうが社会的、マクロ的には正しいのだろう。ミクロ視点となると正直どっちでも・どうでも良い。

個人としてミクロ視点で悩むのは大いに悩んで人生楽しめばいいが、話し合いをしようとしてミクロ視点をふっかけてくる人は相手にする必要ないだろう。それあなたの感想ですよね、とでも言っておけ。

「ただ生きているだけでは本当に生きていると言えない」という考え

真のスコットランド人論法を平気でふっかけてくる人もいる。その人達の考えを汲み取ると、人は他人と切磋琢磨して精神的に成長し自己肯定感や存在意義を見出すことが求められるらしい。それ以外の人は許されないと切って捨てるように言うが、これって優生主義に近いものがあるのでは?人の行動や性格は遺伝による影響から逃れられないため、行動を否定するときは間接的に優生主義の主張をしていることになる......というのは強引か。
優生主義が良くないものということを前提として、他人を否定していいラインを考えるのも面白いな。

最後に

久々の投稿で力尽きたのでこの辺で。今回だけでゴールまではたどり着かないので今後も考え続けるが、ぼんやりと結論が見えてきた。「一人で生きられるが、一人で生きてはいけない」というのが結論になるのかなと思う。いきなり結論が出て色々面倒になるのはINTPだから許してくれ。

今日はこのへんで、おやすみなさい。

記事とは無関係なおすすめの本

bookmeter.com
bookmeter.com

歩きスマホをしてしまう心理を知りたい

こんばんは、白蝶です。
久しぶりの投稿です。引越してまだネット環境が整っていないのでスマホでポチポチ文字打ってます。


早速ですが歩きスマホをするやつはバカか傲慢かどちらかだろうと思っています。
スマホ見ながらも周りは見ているなどと考えているだろうが、視野が狭くなり注意が散漫になるはずで、実際に事故にならないのは周囲の人が避けているからということに気付いていない。
気付いていながらも歩きスマホしているなら、他人にそれだけの労力を割かせるだけの価値のある、意味のある人生を生きていると勘違いしている傲慢で不遜な人です。勘違いしていないならやはりバカです。

こういう人は潜在的な当たり屋、通り魔だと私は思っています。


さて、関連するか微妙ですが当たり屋といえば、コミュニケーションにおいて相手に関して確証はないが決めつけて「君って〇〇だよね」と言い、それに対して「いや違う、△△だ」と訂正させて話を引き出すオープンクエスチョンの亜種を吹っ掛けてくるやつがいますがこの手合いが非常に苦手です。私はこの手のやつは当たり屋とか通り魔の類だと思っています。
というのも、不要なら一言たりとも喋りたくないのが私の基本的な考えです。にもかかわらずこの手合の話し方だと否定しなければ相手の言い分が真実のように扱われてしまう、喋ることを強要されているわけです。大抵この場合は勘違いされたままだと面倒なことになりがちです。
大抵の人は話して誤解をとけばいいだろうという思考回路だと思うと、この意味でやはり自分はコミュ障なんだろうなと感じる。コミュニケーション取りたいと強く感じないのが問題だとは思っている。
気のおけない相手が居ないせいかわかりませんが、他人と1時間も喋ると連続的、断続的問わず大抵お喋りキャパオーバーします。サラリーもらってるマンなので毎日キャパオーバーで死にたくなります。


歩きスマファーもコミュニケーション通り魔も受け側が損を被る。世の中往々にしてこういう事例が多く、受け手側は声を挙げる性質を持ってないからして受け手側なのであり、この構図は搾取である。高い内向性は社会的な損をもたらすことが多い。

私の場合は内向性に加えて、そういう人が増えてほしくないから行動で示しているつもりだが、これは結局偽善でしかないのかもしれない。実のところ「自分は正しい行動をしており悪くないが世の中変わらない、やれやれ皆馬鹿だな」と思っていたいのかもしれない。

他者のためを考えるならば、考えを布教し、同じ考えを持つ人を増やす努力を積極的にすべきなんだよな。


今回はこのへんで、おやすみなさい。

P.S. 歩きスマファーの心理は知らなくてもいいや。

白蝶

最近は自己責任論が流行っているよね

f:id:shirocho:20220227023044p:plain
こんばんは白蝶です。
自己責任論って皆に等しく優しくないよねって話です。あまり長い話にはならないと思います。

概要

  • SNSの特徴
  • 居なくなった妖怪
  • 自己責任論はビジネスマン思考
  • 悪いのは自分か?

SNSの特徴

TwitterInstagram、昔ならmixiは他者の様々な発言を見ることができ、リアルならば自分の周りに居ないような高スペックな人とも関わることができます。実際には一方フォローで相手からの返事がなくても勘違いできるため、自己評価が分不相応に高くなってしまうデメリットがあります。

また、一見様々な人の発言を見ることができるため客観性があるように思われがちですが、自分が気に入ってフォローした人間というのは基本的に自分と同方向の思考を持っています(同質であるかは別の話)。よほど意識しない限りエコーチェンバー現象で自分やフォロワーの平均を標準と認識してしまうデメリットもあります。

つまりSNSのデメリットには自己評価・認識の精度、確度の両方を狂わせてしまうことがあります

居なくなった妖怪

ネットの普及で昭和、平成時代には居た妖怪が駆逐されてしまっているでしょう。
SNSの力もあってのことですが、今やネットは知の集合体と錯覚できるものとなり、大概のことは調べれば誰か優しい人が書いてくれています。そのせいで若者の多くの頭にはわからないことは無いという幻想が染み付いています。科学的に、物理的に妖怪なんて居ない、そんなのはありえないと。

天狗のような古い妖怪は理解のできない現象を説明するために生み出された「神」であり、近代的妖怪は大人が子供の行動を制限するために生み出した仮想、又は古い妖怪を利用したリメイクです。

現代ではこのようなものは存在しません。神隠しは無いし、河童は寿司を握らされているだけだし、ポマード投げる機会なんてありません。居たら良いなという妄想は捗りますが。

妖怪の都合が良いところは日本的な「神」であってどこにでも居て理屈で説明つかない存在であることです。妖怪がやるなら仕方がない、地震雷火事おやじのような自然現象を自分の力が及ばないと感じて諦めるのと似ています。しかし今やニュートン力学を振りかざし妖怪なんて居ないと言う現代で諦められるのは自然災害だけです*1

自己責任論はビジネスマン思考

さて、神のような自分の手に負えない原因発生装置が無くなってしまうとなにか起きたとき悪いのは他人か自分となってしまいます。

面白い話ですが他者責任論が流行った場合、自分以外の人が多くのことを自分の責任にしようと躍起になるわけです。現代では話が違うかも知れませんが、少なくとも10年くらい前には金を稼ぐ人、影響力のある人ほど多くの他人と関わっているはずです。そうなると常に四面楚歌な非常につらい状況になるでしょうからこれは流行らない*2

さて他方で自己責任論が流行った場合、他人が自分に責任をなすりつけてこようともそれはお前のせいだと一蹴してやれば良い。これは非常に楽だし、人生が上手くいく限り上手く回る。「私失敗しないので」を実現できれば誰からも何も言われようがない。余裕がある人はその余力で用意周到に物事を進められるが、反対に余裕のない人は失敗のサイクルに陥る可能性がある。

日本は先行き暗いので自己責任論は辛くなる人が多いにもかかわらず何故流行っているのか疑問です。

とはいえ考えられる理由は2つ。1つは自己責任論がビジネスマンの思考と親和性が高いこと、つまり自分の力でどうにかなるという前提があることです。2つ目は「他人に迷惑をかけない」という考えの延長ということ、ただしこれは順序関係が不明確ですが。

ビジネスの世界では経済も会社も仕組みを相手にする場合は人工的なため、ほとんどのものは思い通りになります。だからこそできないなら「お前のせい」ということになります。自己責任論の対象が人工的なものに限定すれば概ね正しいのですが、自然が関わると思い通りになるという前提が崩れるため具合が悪くなる*3
サラリーマンはビジネスマン思考に曝されている時間が長いため、プライベートでも似たような考えになってしまいがちなのが怖い。

「他人に迷惑をかけない」この視点と言い回しを変換すると「俺に迷惑を掛けるな」ですが、この考えが流行っていることと自己責任論の相関関係はある気がします。貧乏が子供を生むと迷惑だから生まない。プライベートに踏み込むと迷惑だから関わらない。他人にお願いごとをすると迷惑になるから自分でやる。などなど。

悪いのは自分か?

社会心理学的実験の結論は「自由意志というものはなく全ては外因のせい」です。自分が生まれたのも顔が不細工なのも親のせいです。何で日本人なのかといえば大陸横断したやつのせいで私は何もしていない。だから大抵のことは原因を遡れば外因で責任の追求などできません。
社会的には責任の所在を確定させることが必要だから、自由意志という幻想を流布させて自己責任論が蔓延しています。しかし集団の大きさによって性質が異なるため、家庭や友人関係に自己責任論を導入するのは都合が悪い。

大きくなりすぎた社会は信頼を前提にしない貨幣やシステムの導入でどんな取引相手でも成立しています。個人間の信頼関係が重要となる狭い人間関係とは根本的に異なる。信頼がある関係では貨幣でなくても貸し借りという合意で構わない。そのようなシステムとの親和性の高い自己責任論が個人的関係において利用できるわけがない。

これは妄想理論だが、信頼不要の社会というシステムと関わること(=仕事)が嫌いな人は個人的関係に自己責任論を導入するべきではない。信頼システムを好む人同士で関わるべきだ。つまり結婚相手が仕事好きかどうかは気にしたほうが良いかも知れない*4

時代変遷を辿ると外因論から自己責任論に移行している。時代が進むほど真理に近づくというのは誤謬である。失われるものも多く、全体的に真理に近づくのではなく局所的に先鋭化するものだ。それがある一面では真実味が深まっているように見えるだけである。つまり外因論が間違っているとは限らない。当然自己責任論も間違っているとは限らない、ビジネスと親和性が高いだけだ。


外因論は救いだろう?俺は悪くないって言うんだから。


今日はこの辺でおやすみなさい。

類似の記事

shirocho.hatenablog.com

*1:ある面では言い過ぎなのはわかっています。もっというと自然災害すらも科学でどうにかできると勘違いしている現代人も多い始末で、頭がビジネス野郎の多さに辟易します。

*2:他人に何言われても気にならないという人はこの状況でも無敵ですね。

*3:人間も自然ですよ(^^;)

*4:パートナーと志向が同じならば結婚生活は上手くいくかも知れないが、生まれた子供の志向が違った場合子供は親の志向に侵されるか違いに苦しむか。親の方向性が違うと子供は処世術が身につくことを考えると、まあ好きにすればという感じ。

使命感を持つときは使命感を持たされている。誰に? 神に。

f:id:shirocho:20220122234739p:plain
こんばんは、白蝶です。
まあいわゆる自由意志なんて無いという話です。
ダラダラ書くと言いたいことがブレるので、書こうと思っていることを先に箇条書きで示します。

概要

  • 自分の意志はありもしない幻想ということ
  • 人の行動は環境依存ということ
  • 何かをせざるを得ない環境にあるから使命感を持つということ
  • 成功者は変化できる環境にいたということ

自分の意志はありもしない幻想ということ

アメリカの生理学者であるBenjamin Libetさんの研究で有名ですが、

  • 行動する0.2秒前には意識的決定の電位が脳に生じる
  • 意識的決定の更に約0.2秒前に運動準備電位が無意識下で発生している

つまり、自分で行動の意識をしたと思っても、実際にはその約0.2秒前には脳が動き始めているので「自分の意志で」行動するというのは幻想ということです。

この研究の数年後にBenjamin Libetさんが深堀りして、運動準備電位発生と意識的決定の間に行動を変更できるかを実験して確認しています。結果として意識的決定の前(すなわち行動の0.2秒前)までは変更が可能のようです。無意識に対する否定権は持っているということがわかります。またこの研究において行動の起爆剤となるのが無意識であるという前提は否定されていません。


わかりやすく書いている方々がいるため詳しく知りたい人は下記を読めば良いんじゃないかな。
note.com
wired.jp


ただし、あくまで実験環境においてであって、リアルでもそのまま適用できるかどうかは疑問です。

人の行動は環境依存ということ

人が行動をするとき恐らく多くのことを無意識が判断しているのだと思います。
経験として、過去の失敗・成功、その手順・方法。価値観として、誰・何を大切な主軸とするか、効率か調和か、過程か結果か。多くの人はこれら全てを意識的に出来るほど器用ではないと思います。総合的に判断したことを「なんとなく」と表現します。


理由を挙げることはできても後付けとなります。数多考えられる原因のうちいくつかを拾い上げると「理由」になります。その「理由」を選択したのも「なんとなく」です。


経験も価値観も全てその人が置かれた環境によって定まります*1。どこに生まれたか誰に育てられたか、誰と関わって育ったか、何を食べて生きたか、何を見て聴いて触ってどんな言葉を摂取して生きたか。それら全てが微妙に違い最終生成物は全て異なるものが出来上がります。


最近親ガチャなんて言葉が話題になりましたが、悲観的でもなく責任転嫁でもなく事実として誰から生まれるか、誰として生まれるかでその後の行動・人格が決定します。ただし、決定といっても未来予測できるという意味ではありません。

何かをせざるを得ない環境にあるから使命感を持つということ

多くの人はせざるを得ない環境にあるから行動に移します。例えば仕事で責任感を持って仕事をしなさいなどと指示することは無意味で、責任感を持たざるを得ない状況にするから責任感を持つのです。

内田樹さんが『困難な成熟』という本で述べていましたが子供は成熟せざるを得ない状況にあるから成熟するのです。立派な大人が2人、夫婦で喧嘩をして子供が仲裁役を担おうとすることで成熟します。小学生でも人によって精神の成長度合いが異なっていると思いますが、早熟な子はそういう環境にあったということでしょう。

では責任感を持つ状況とは何か。自分が行動しなければならない、代理はいないという状況です。
実際には自分なんていなくてもなんとか世の中回るというのが往々にしてあるのですが、自分がやらなければいけないと勘違いできると責任感を持てます。この時点で学習性無気力に陥っているとどうにもならないのですが、いくばくかの能力があれば十分です。

何かを強く志して使命感や情熱をもって成功している人はそういう環境に置かれていたのでしょう。

成功者は変化できる環境にいたということ

自分が行動せざるを得なかった環境に置かれていた人ほど行動をしているはずです。決して成功・失敗どちらに近づくかはわかりませんが、サイコロを振り自分の人生に影響を与えていたという意味で変化をしていたはずです。最近はSNSの影響もあり成功者の声が大きく、また原理的に失敗者は恐らく亡くなってしまっていたり発言力がなかったりするので無視されがちですが、いずれにしろ行動した結果として成功者が目立つようになっています。

行動の結果としての変化量は人・行動によって違うはずなので一概には言えませんが、勝者も敗者も数直線上で言えば同じ方向のサイコロの目を引き続けた結果*2であり、ガウス分布の両極端です。

行動の指針が正しければ試行回数を重ねたほうが成功に近づくはずです。だから成功者の多くは行動する機会を多く与えられた人の中から現れます。

ここはビジネスマン向けのブログではないので悲観的なことも書きますが*3、成功者だとしても「行動するのは行動せざるを得なかったときだけ」という原則は同じです。すなわち成功者は行動しなければ生きられなかった人達の一部だということです。

行動しなくても生きられた人達、もしくは成功者になるほど行動しなくても生きられる人達は変化せずとも適応できる環境に置かれた恵まれた人達という捉え方もできます。

最後に

どうすれば使命感や責任感を持てるのかというと、環境を変えることが一番である。
とはいえ上記の論理だと環境を変えようと思えるかどうかもまた、環境を変えざるを得ない環境に居たかどうかに依存する。意識して行動したつもりでもそれは無意識な行動なんですよという少々無力感を覚える考えかもしれない。


そう思う人は人間を過大評価している。働きアリの2-6-2の法則*4があるが、変わろうとしない人はそういう役回りなだけである。使命感を持たせたい対象が自分であるか、他者であるかに関わらず、また他者と比較して使命感を持っていないことに危機感や焦燥感を抱く人はこういう考えが足りない。そんなストレッサーを保持しても自慢にもならない。


なんてことをつらつらと書いたが、テレビで町おこしを支えるドキュメンタリーを見る機会があり「自分がこの仕事をしなければ」と思う人は何を考えているのかと思って上記を考えたわけだ。(嘘つきだと言うつもりではなく)吐く大義名分は無意識の行動を整合させる意識の突貫工事で生まれたモデルハウスであり言葉に大した意味はない、この人には余裕があるが私には関係ない、私には別の役割があるだろうと嘯いて今日も自堕落な生活をしようと考えた日の事後報告である。


結局長くなってしまったが今日はこのへんで、おやすみなさい。

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*1:これは同じ条件を揃えれば同じ人間ができあがるという話には発展しません。DNAも占める空間も時間も同じ条件に揃えることは不可能ですから。

*2:一発逆転逃げ切りの人がいないとは言えない。

*3:そもそも気分が良くなることを書いていない。

*4:集団の中で飛び抜けてよく働くのが2割、普通のやつが6割、休んでいるやつが2割いるという観測結果。パレートの法則の亜種。