白蝶の雑記帳

儲からない時間、無駄な時間、考える時間。

最近は自己責任論が流行っているよね

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こんばんは白蝶です。
自己責任論って皆に等しく優しくないよねって話です。あまり長い話にはならないと思います。

概要

  • SNSの特徴
  • 居なくなった妖怪
  • 自己責任論はビジネスマン思考
  • 悪いのは自分か?

SNSの特徴

TwitterInstagram、昔ならmixiは他者の様々な発言を見ることができ、リアルならば自分の周りに居ないような高スペックな人とも関わることができます。実際には一方フォローで相手からの返事がなくても勘違いできるため、自己評価が分不相応に高くなってしまうデメリットがあります。

また、一見様々な人の発言を見ることができるため客観性があるように思われがちですが、自分が気に入ってフォローした人間というのは基本的に自分と同方向の思考を持っています(同質であるかは別の話)。よほど意識しない限りエコーチェンバー現象で自分やフォロワーの平均を標準と認識してしまうデメリットもあります。

つまりSNSのデメリットには自己評価・認識の精度、確度の両方を狂わせてしまうことがあります

居なくなった妖怪

ネットの普及で昭和、平成時代には居た妖怪が駆逐されてしまっているでしょう。
SNSの力もあってのことですが、今やネットは知の集合体と錯覚できるものとなり、大概のことは調べれば誰か優しい人が書いてくれています。そのせいで若者の多くの頭にはわからないことは無いという幻想が染み付いています。科学的に、物理的に妖怪なんて居ない、そんなのはありえないと。

天狗のような古い妖怪は理解のできない現象を説明するために生み出された「神」であり、近代的妖怪は大人が子供の行動を制限するために生み出した仮想、又は古い妖怪を利用したリメイクです。

現代ではこのようなものは存在しません。神隠しは無いし、河童は寿司を握らされているだけだし、ポマード投げる機会なんてありません。居たら良いなという妄想は捗りますが。

妖怪の都合が良いところは日本的な「神」であってどこにでも居て理屈で説明つかない存在であることです。妖怪がやるなら仕方がない、地震雷火事おやじのような自然現象を自分の力が及ばないと感じて諦めるのと似ています。しかし今やニュートン力学を振りかざし妖怪なんて居ないと言う現代で諦められるのは自然災害だけです*1

自己責任論はビジネスマン思考

さて、神のような自分の手に負えない原因発生装置が無くなってしまうとなにか起きたとき悪いのは他人か自分となってしまいます。

面白い話ですが他者責任論が流行った場合、自分以外の人が多くのことを自分の責任にしようと躍起になるわけです。現代では話が違うかも知れませんが、少なくとも10年くらい前には金を稼ぐ人、影響力のある人ほど多くの他人と関わっているはずです。そうなると常に四面楚歌な非常につらい状況になるでしょうからこれは流行らない*2

さて他方で自己責任論が流行った場合、他人が自分に責任をなすりつけてこようともそれはお前のせいだと一蹴してやれば良い。これは非常に楽だし、人生が上手くいく限り上手く回る。「私失敗しないので」を実現できれば誰からも何も言われようがない。余裕がある人はその余力で用意周到に物事を進められるが、反対に余裕のない人は失敗のサイクルに陥る可能性がある。

日本は先行き暗いので自己責任論は辛くなる人が多いにもかかわらず何故流行っているのか疑問です。

とはいえ考えられる理由は2つ。1つは自己責任論がビジネスマンの思考と親和性が高いこと、つまり自分の力でどうにかなるという前提があることです。2つ目は「他人に迷惑をかけない」という考えの延長ということ、ただしこれは順序関係が不明確ですが。

ビジネスの世界では経済も会社も仕組みを相手にする場合は人工的なため、ほとんどのものは思い通りになります。だからこそできないなら「お前のせい」ということになります。自己責任論の対象が人工的なものに限定すれば概ね正しいのですが、自然が関わると思い通りになるという前提が崩れるため具合が悪くなる*3
サラリーマンはビジネスマン思考に曝されている時間が長いため、プライベートでも似たような考えになってしまいがちなのが怖い。

「他人に迷惑をかけない」この視点と言い回しを変換すると「俺に迷惑を掛けるな」ですが、この考えが流行っていることと自己責任論の相関関係はある気がします。貧乏が子供を生むと迷惑だから生まない。プライベートに踏み込むと迷惑だから関わらない。他人にお願いごとをすると迷惑になるから自分でやる。などなど。

悪いのは自分か?

社会心理学的実験の結論は「自由意志というものはなく全ては外因のせい」です。自分が生まれたのも顔が不細工なのも親のせいです。何で日本人なのかといえば大陸横断したやつのせいで私は何もしていない。だから大抵のことは原因を遡れば外因で責任の追求などできません。
社会的には責任の所在を確定させることが必要だから、自由意志という幻想を流布させて自己責任論が蔓延しています。しかし集団の大きさによって性質が異なるため、家庭や友人関係に自己責任論を導入するのは都合が悪い。

大きくなりすぎた社会は信頼を前提にしない貨幣やシステムの導入でどんな取引相手でも成立しています。個人間の信頼関係が重要となる狭い人間関係とは根本的に異なる。信頼がある関係では貨幣でなくても貸し借りという合意で構わない。そのようなシステムとの親和性の高い自己責任論が個人的関係において利用できるわけがない。

これは妄想理論だが、信頼不要の社会というシステムと関わること(=仕事)が嫌いな人は個人的関係に自己責任論を導入するべきではない。信頼システムを好む人同士で関わるべきだ。つまり結婚相手が仕事好きかどうかは気にしたほうが良いかも知れない*4

時代変遷を辿ると外因論から自己責任論に移行している。時代が進むほど真理に近づくというのは誤謬である。失われるものも多く、全体的に真理に近づくのではなく局所的に先鋭化するものだ。それがある一面では真実味が深まっているように見えるだけである。つまり外因論が間違っているとは限らない。当然自己責任論も間違っているとは限らない、ビジネスと親和性が高いだけだ。


外因論は救いだろう?俺は悪くないって言うんだから。


今日はこの辺でおやすみなさい。

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shirocho.hatenablog.com

*1:ある面では言い過ぎなのはわかっています。もっというと自然災害すらも科学でどうにかできると勘違いしている現代人も多い始末で、頭がビジネス野郎の多さに辟易します。

*2:他人に何言われても気にならないという人はこの状況でも無敵ですね。

*3:人間も自然ですよ(^^;)

*4:パートナーと志向が同じならば結婚生活は上手くいくかも知れないが、生まれた子供の志向が違った場合子供は親の志向に侵されるか違いに苦しむか。親の方向性が違うと子供は処世術が身につくことを考えると、まあ好きにすればという感じ。