白蝶の雑記帳

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人は一人では生きられないとかいう名言

お久しぶりですこんばんは、白蝶です。

タイトルの名言「人は一人では生きられない」という名言について考えてみる。友達や恋人がいない奴は幸福度が低下したりと色々問題があるらしい。ところで私には友達がいないが特に問題はない。なぜなら人は一人では生きられないからだ。私が生きられるということはつまり一人ではないということだ。この世界で一人ではないというのは希望が持てるな。うぬう。

こんな風に嘯いて日々生きているわけだが、長らく語り継がれる名言ならばこの詭弁も覆してくれると信じて調べてみる。この記事のゴールは私が友達や恋人、結婚相手を作ろうと思えるようになること、もしくは完璧に反論できるようになることだ。

世で言われる文脈と、身近な人が言う文脈では異なっているはずなのでミクロ視点とマクロ視点でそれぞれを考える必要があると思う。考えたことがある人はわかるだろうがこの名言はマクロ視点=社会視点において有効で、意味が理解できるが、ミクロ視点では感情論でしかないと思う。

目次

Point 1 世の中は分業制で成立しているという観点

衣食住の調達全ての工程において他人が関わらないように賄うことはできない、また仕事においても物やサービスを提供しているならそれを受け取っている人がいるはずだから誰かと関わらざるをえない、という観点。まあ衣食住全て一人で調達できるならば、貨幣を使わずに済むため他人と関わらなくて済む。

制度の観点から言うと、土地を持っているだけでも税金を取られるため、日本ならば日本円を支払わなければならない。払う方法が電子化されたとしても円を調達するために円を持った他者と関わらなければならない。だから関わらないようにするというのは少なくとも日本という国では、日本円が関わる限りは無理だ。

Point 2 金で享受可能な商品(又はサービス)から人間関係は発生しないという観点

「人は一人では生きられない」という名言に反論したい孤独者はこの観点で話していると思う。ただし「金で享受可能な商品」といっても全てではなく話者に都合の良い定義で話しているに違いない。

人間関係が発生しないと考えられている例(想像)

下記のルールに当てはまる場合、無意識に人間関係が発生しないと考えている。

  1. 非対面で享受する場合
  2. 対面相手と自分双方のやり取りが定型である場合
  3. 対面相手が入れ替え可能な立場の場合
  4. 自分が入れ替え可能な立場の場合

Amazonで商品を購入する場合は言わずもがな、スーパーマーケットで購入する場合も慣れて決まりきったやり取りしかしないならばやはり人間関係の発生を感じない。
また、入れ替え可能な立場というのは自分または相手との関わりが長く続かないという意味だ。(関係消滅が故意、環境によるものもしくはいずれかは要検討)関係の期間と関連して関係の深さも重要なファクターだと気づく。

人間関係の深さ

大雑把に2分すると、二人称の関係と三人称の関係がある。当然どちらの関係もグラデーションがあるので下図の通りとなる。二人称は親密な関係、もしくは親密でいたいと思う関係のこと。三人称はそれ以外全て。流石に見たことも聞いたこともない人はマッピングしていないがもし図に入れるならば画面外の左下の方かな。意味ないが。

親密度マップ
図1 親密度マップ
親密度マップ(カテゴライズ版)
図2 親密度マップ(カテゴライズ版)


自覚があるほど希薄な人間関係で生きているためご覧の通りスカスカマップになっている。期間も深度も原点は零ではなく基準値となる。期間にしろ深度にしろ中央が埋まらない。ちなみに稀に会う友人は最後に取ってつけたように入れた。

左下の第三象限の人々はよほど意識しなければ意識外に追いやられる。「金さえ稼げれば一人で生きていけるじゃないか」と主張する方は第三象限、場合によっては第四象限も無視している。

認識の明確化

定義付けは最初にやるべきな気もするが、ここで「一人で生きられない派」「一人で生きられる派」の認識をはっきりさせておこうと思う。

一人で生きられない派の根拠

  • ミクロ視点(個人的視点)
    • 現在的:友人や恋人という精神的支柱が必要だから。親、結婚相手といった金銭的支柱が必要だから。友人がいるほうが楽しいから。友人がいない寂しい人と思われたくない。
    • 将来的:怪我をして精神的支柱、金銭的支柱が必要になるかもしれないから。年をとると身体的に支えが必要だから。
  • マクロ視点(社会的視点またはメタ視点)
    • 社会は分業制で一人で衣食住を賄うことはできないから。
    • 子育てや恋愛の試行錯誤等、人と関わることを通じて成長するものだから。

一人で生きられる派の根拠

  • ミクロ視点
    • (意味のある関わり以外は人間関係とカウントしていない、関係が浅いものは人間関係とカウントしていないため)現に自分が一人で生きているから。
    • (故人は発言できないのは知っているが)現に世の中独身で生きている人も多いから。
  • マクロ視点
    • 違法ではないし他者に迷惑をかけているわけではないから放っておいてほしい。(子育てしないことは棚に上げるものとする)

さて、ここで明確化したのは「一人で生きられる派」の自己中心的思考だ。なんとなく構造主義実存主義の対立を感じる。メタ視点で広く物事を考えている感や他者のことを慮っている感を醸し出すと正当な印象を受けるから一人では生きられない派のほうが社会的、マクロ的には正しいのだろう。ミクロ視点となると正直どっちでも・どうでも良い。

個人としてミクロ視点で悩むのは大いに悩んで人生楽しめばいいが、話し合いをしようとしてミクロ視点をふっかけてくる人は相手にする必要ないだろう。それあなたの感想ですよね、とでも言っておけ。

「ただ生きているだけでは本当に生きていると言えない」という考え

真のスコットランド人論法を平気でふっかけてくる人もいる。その人達の考えを汲み取ると、人は他人と切磋琢磨して精神的に成長し自己肯定感や存在意義を見出すことが求められるらしい。それ以外の人は許されないと切って捨てるように言うが、これって優生主義に近いものがあるのでは?人の行動や性格は遺伝による影響から逃れられないため、行動を否定するときは間接的に優生主義の主張をしていることになる......というのは強引か。
優生主義が良くないものということを前提として、他人を否定していいラインを考えるのも面白いな。

最後に

久々の投稿で力尽きたのでこの辺で。今回だけでゴールまではたどり着かないので今後も考え続けるが、ぼんやりと結論が見えてきた。「一人で生きられるが、一人で生きてはいけない」というのが結論になるのかなと思う。いきなり結論が出て色々面倒になるのはINTPだから許してくれ。

今日はこのへんで、おやすみなさい。

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